英語アレルギーをわずか1ヶ月で克服!? やり切ったオーストラリアでの看護インターン

お名前阪口七海様留学期間2022年4月 - 2023年3月
滞在都市シドニー / オーストラリアインターン先ナーシングホーム、訪問介護(障害児対象)

1.七海さんの留学スケジュール

臨床経験3年を経て、海外看護有給インターンシップに参加された七海さんから体験談をいただきました。英語力ゼロの状態から、周囲のサポートを受けつつアシスタントナースとしての仕事も、オーストラリアでの一人旅行も、やりたいと思えることにはなんでも挑戦できるようになったといいます。語学学校の先生も驚いた英語の飛躍的成長の背景にあるのは一体どのような経験だったのでしょうか。英語に自信がない.. という方、日本でのキャリアか海外か悩んでいる.. という方はぜひ読んでみてください。

七海さんの留学概要

渡航国:オーストラリア
渡航都市:シドニー
留学プログラム:海外看護有給インターンシップ
渡航期間:2022年4月 – 2023年3月
インターンシップ先:ナーシングホーム、訪問介護(障害児対象)

お問い合わせから帰国までの流れ

2.海外看護有給インターンシップで留学しようと決めた理由

ワールドアベニューの海外看護有給インターンシップ・プログラム説明会に参加したのは、看護師になって1年目のときでした。

学生時代からJICAや国境なき医師団など国際看護に興味があり、将来挑戦したいと考えていました。しかし、看護師としてキャリアを積み始めるなか、私には大きな壁が立ちはだかっていました。

「英語」です。

実は、英語が絶望的にできませんでした。。成績が悪いことはもちろん、英語の授業は子守唄を聞いているような気分になる.. など、英語への苦手意識はアレルギーなのではないかと思うほどでした(苦笑) 苦手克服のため、英会話レッスンに通ったこともあります。しかし、仕事の忙しさや、そもそもの苦手意識から全く続かず.. これはもう「英語を話さざるを得ない環境に飛び込むしかない!」そう考えたことが、留学に興味を持ったきっかけでした。

「看護インターンであれば、英語力向上に加え、海外で看護師としての知見を深めることもでき、一石二鳥だ!」と考えた私は、すぐさま説明会に参加した.. というわけです。しかし、看護インターンのプログラムには出発月が設定されており、募集開始時期が限られていました。臨床3年程度積んでからの渡航を検討していた私は、残念ながらすぐの申し込みはできませんでしたが、3年後の出発に備え、留学貯金を開始しました。

 

コロナ禍での決意

3年間、なんとかして少しでも英語を話せるように.. と、懲りもせず英会話に通ってみたり、趣味のスキーを通じて、海外の人との交流に挑戦してみたりしました。英会話は相変わらずウトウトしてしまうものの、人との交流であればジェスチャーや翻訳機を駆使しながら、なんとかコミュニケーションをとることはできました。そんな経験を繰り返すことで、「喋れるようになりたい!」という気持ちは日に日に強くなっていきました。

貯金も順調に進み、いよいよ本格的に留学準備を.. と思った矢先、パンデミックが世界を震撼させました。留学どころか旅行も行けなくなり、海外の人との交流機会もグッと減っていきました。仕事も多忙を極め、果たして留学なんていけるのか.. という不安が積もっていきました。

「今申し込みしたところで、予定通り渡航できるかどうかわからない..」
「無事、出発できても隔離隔離で本来の留学生活を送れる確証もない..
仕事も見つからないかもしれない..」

そんな不安に加え、臨床3年目に入るタイミングだった私は、日本での看護の仕事への面白さも強く感じるようになっていました。

「今ここでキャリアを止めていいのだろうか..」

周囲からの反対も強く、さまざまな葛藤が頭のなかをぐるぐるしました。しかし、留学は臨床1年目からの目標です。そんな簡単に諦められるわけもありません。また、後悔する可能性や思い描く時間を過ごせない可能性は、留学と日本でのキャリア、どちらを選んだとしてもあり得ます。そう考えたときに、やはり、やらずに後悔はしなくないという気持ちが強くなり、思い切って申し込み手続きを進め、最初に必要な費用をチャチャっと支払いました。

そこからは「お金払っちゃったし、やるしかない!」と前向きに考え、準備を進めていきました。

3.英語力ゼロ!所持金700ドルで乗り切った1ヶ月目

幸いにも2021年12月にオーストラリアの入国制限が緩和され、予定していた2022年4月、無事出発することができました。むしろ、入国制限が解除されたばかりで、仕事においては人手不足、シェアハウスも買い手市場で、今考えるといいタイミングだったように思います。

過去1でやばい生徒かもしれない..!?


”英語の勉強”が非常に苦手な私は、残念ながら出発前オンライン英語+コーチングの受講もかなり苦戦しました。過去挑戦してきた英会話同様、授業はウトウトしがちでしたし、仕事の忙しさを言い訳に、課題提出も思うようにできていなかった.. というのが正直なところです。

結果、英語力はゼロの状態で海外生活をスタートしました。そのヤバさは、語学学校の先生から「過去一番英語力のない生徒かもしれない..」と言われたほどです(苦笑) ただ、ここまで言われると、逆に開き直れるところもあり、英語ができない事実を真摯に受け止め、周囲から教えてもらったり助けてもらったりすることで、少しずつ英語を吸収していきました。

なかでも、ホストファミリーとアルバイト先のメンバー、そしてオーストラリアで出会った友人たちの存在は、英語力向上において大きな支えになりました。

例えば、ホストファミリー、特にホストマザーの存在はとても大きなものでした。実はマザーが英語の先生をしている人でした。なので、英語を話せない留学生に対する理解も深く、家にいるときはいつも丁寧に英語を教えてくれました。ホストファーザーもとても優しく、私のレベルに合わせてゆっくり、わかりやすい表現を用いて「できるかぎり会話できるように.. 」と気遣ってくれましたし、私の拙い英語も一生懸命聞いてくれました。彼らと過ごした時間はたった1ヶ月間でしたが、ファミリーのおかげで英語を話すことへの抵抗は大きく軽減されました。

他にも、アルバイト先のメンバーやオーストラリアで出会った友人たちにはたくさん支えてもらいました。仕事や日々のたわいもない会話のなかで、語彙力や表現力、発音など日々磨かれていきました。

手持ちは700ドルだけ!海外送金がうまくいかず..


シドニーに到着した当初、私の所持金は日本円で10万円、うち7万円(約700ドル)をオーストラリアドルに換金、これのみでした。なぜか海外送金がうまくいかず、しばらく700ドルだけで過ごさなければならないかも.. という状態に陥ったのです。

焦った私は到着した翌日、すぐさま履歴書を抱え仕事探しをスタートしました。英語は全くできない状態でしたが、少しでも英語に触れられる環境に.. と考え、日本食レストランだけど、働いている人は他国の人々というお店を探し、履歴書を配り歩きました。幸い、コロナ明けで人手不足なお店も多く、到着した翌週から仕事を始めることができました。

700ドルしか手元にない!というと、みんな驚き、助けてくれました。海鮮系(お寿司など)を販売しているお店だったこともあり、賄いに加えお弁当と称してお寿司を持ち帰らせてくれることもしばしば.. いただきすぎた次の日には学校で友達にお裾分けをしました。オーストラリアに暮らす人々の温かさには感謝しかありません。

ここで出会った仲間たちとは、オーストラリア滞在期間中、節目節目でさまざまな時間を共有しました。ハロウィンには仮装してルナパークに遊びに行ったり、クリスマスや年末年始、誕生日には一緒にパーティーをしたり、引っ越しを手伝ってもらったりしました。辛いときも楽しいときも、そして帰国した今も繋がる大切な友人たちです。

4.校長先生もびっくり!飛躍的に伸びた英語力


アシスタントナースとして、できるだけ早く働き出したかった私はCertificateのコース終了後、すぐに英語のテスト(スピーキングテスト)を受けにいきました。学校の先生は、入学当初の私の印象が強かったらしく、残念ながら合格に達するレベルではないだろう.. と考えていたそうです。しかし、いざテストを始めてみると喋りまくる私を見て、思わず合格させてしまったそうです(笑)

「落とすつもりだったのに、合格させちゃった」と冗談ぽく言われた際には、内心ちょっと失礼じゃない!?と思いつつも、とても嬉しかったことを覚えています。

この頃になると、日本語と同じ感覚で英語を話せるようになっている私がいて、自身でもかなり強く英語の成長を感じていました。到着時、「アイアムナナミ〜」とカタカナ発音で挨拶していたのが嘘のようでした。

3週間働いて1週間は旅行


テスト合格後、アシスタントナースとしてナーシングホームで働き始めました。最初は週3-4回のシフトでしたが、積極的に派遣会社に連絡し、仕事をもらうことで、だんだんと週5勤務で安定していきました。飲食店(2カ所)での仕事も続けていたため、ここからは多忙な日々でした。

生活のイメージは、アシスタントナースとしてモーニングシフト(7時AM〜3時PM)を終えたのち、4時PM頃から11時PM頃まで飲食店で働く.. という感じです。忙しいのですが、オーストラリアでは残業もなく、希望を出せば休みもしっかりもらえる、さらに給与もいいので、3週間は詰めつめで働いて、1週間はお休みをもらいオーストラリア国内を旅行する、そんな感じでメリハリのある生活を送ることができました。

ちなみに、アシスタントナースの給与は
モーニングシフト 31-32ドル(3,100-3,200円)
イブニングシフト 34-35ドル(3,400-3,500円)
ナイトシフト   35-36ドル(3,500-3,600円)
土曜日 40ドル(4,000円)
日曜日 68ドル(6,800円)
※1ドル=100円計算
で、飲食店での給与も合わせると、1週間で2,000ドル程度の収入がありました。家賃(週220ドル)や日用品、交通費などの出費はありましたが、食費は飲食店からのお弁当で賄えていたため、気がつくとお金が貯まっている.. という感じでした。

七海さんの海外生活の様子

492913468317106338
492913389363528257
492913466487865606
492913467142701137
492913388256231667
492913186996748433
492913386258956467
492913127302627698
492913385588654611
492913468317106338 492913389363528257 492913466487865606 492913467142701137 492913388256231667 492913186996748433 492913386258956467 492913127302627698 492913385588654611

そして、毎月旅行していたため、気がつけばオーストラリア中を囲っていました。最初はスキー旅行をかねてキャンベラへ、その他にもメルボルンやタスマニア、ケアンズで一人旅を、ウルルやゴールドコーストには友達との旅行を楽しみました。タスマニアではレンタカーを借りました。レンタカー屋さんのスタッフの方と仲良くなり、車の返却時間に間に合わないことを相談すると、「路駐でいいよ!鍵はシャッターの隙間から投げといて!」といいます(笑) 景色以上にオーストラリアの壮大さを感じた瞬間でした(笑)

最後の1ヶ月はパースにお引越し

アシスタントナースの仕事も終えた1年の終わり、ずっと興味のあったパースに行くことにしました。旅行で行ってもよかったのですが、せっかくなら.. と思い切って引っ越すことに決めました。

パースに引っ越してからは、ずっと興味のあったファームを体験したり(にんじんファームだったのですが、すぐ飽きてしまい苦笑、1週間だけの体験でした)、ネイティブ環境の飲食店や病院での仕事に応募するなど、新しいことに挑戦したりしました。残念ながら病院での採用はありませんでしたが、地元の飲食店での仕事が決まりました。このとき、ふっとやってみたいと思ったことはなんでも実現できている自分に気がつきました。

「やり尽くしたな!」

そう感じた私は、日本に帰国することを決めました。

5.”価値観” の違いを感じたオーストラリアでの仕事


オーストラリアでのアシスタントナースとしての就労は本当に貴重な経験でした。日本では知り得なかった価値観や考え方、看護・介護のあり方に触れることができたと思っています。

特に興味深かったのは、「その人がその人らしく生きる」ことへのこだわりです。例えば、食事は人によって違うものが提供されているし、ビュッフェスタイルのところもありました。洋服も、スーツを着たい人にはスーツを、お化粧やマニキュアを楽しみたい人には、介護者側も、そのための時間をきちんと設けます。シャワーも希望であれば毎日入りますし、ベットメイキングの仕方はホテルのようでした。日本では、ケアを提供するうえでの効率のよさや、事故に繋がらないようリスク防止の観点などを踏まえ、食事や服装、身の回りのサポート方法が定められているように思います。一方、オーストラリアは先述したように利用者の気持ちや希望をできる限り最優先に、ケアが提供されています。

犬や猫などの動物とのふれあい、コロナ禍にも関わらず赤ちゃんも含め、家族との頻繁な交流.. 最初は、健康を害するのではないかと思える食事内容や、必要性を感じないシャワー介助など、理解ができませんでした。しかし、大事にしたいと考えているものの軸の違いに気が付いたとき、いろんなものが腹落ちし、とても素直に「こういう看護・介護もあるんだ」と受け止められるようになりました。(ベットメイキングの方法だけはいまだに納得してませんが(笑))

オーストラリアでのアシスタントナースとしての経験は英語というコミュニケーションスキルの習得に加え、多様な価値観や考え方をもつ人々への理解という意味で非常に大きな経験だったように思います。

6.今後の目標


帰国後は、かねてより希望していた救急の分野で再就職し、新たにキャリアを積み始めました。英語については、やればできるということがよくわかりましたし、一旦はやり切ったと感じています。だからこそ、次のステップとして、再度看護師としてのキャリアを積んでいくことに集中できる、そう考えています。

JICAなどの国際支援も念頭にはありますが、日本を訪れる外国人患者さんへの対応なども視野に入れています。英語ができるようになったこと、見知らぬ土地で生きていけるという自信がついたこと、これにより人生の選択肢は広がりました。

今はまずは看護師として、キャリアを積みつつ、次のステップを模索していきたいと思います。

7.さいごに


体験談を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。七海さんの体験談はいかがでしたでしょうか。

七海さんに体験談インタビューをさせていただいているなかで感じたのは「行動力がすごい」ということです。七海さんがオーストラリアで初めて一人旅をしたのは6月、到着からわずか2ヶ月目だったそうです。しかも場所はキャンベラ.. 観光地として有名なケアンズやゴールドコーストであれば、日本語が通じる環境も多いと思います。しかし、キャンベラはそうはいきません。にも関わらず、訪れたスキー場で、リフトに乗り合わせる人全員に話しかけ、「この人うまいな!」と思った見ず知らずの人を誘い、丸一日一緒にスキーを楽しんだそうです。英語の授業を聞いてたら眠くなる.. と言っていたところから、短期間で英語力を飛躍的に伸ばせた背景には、こういった努力があったのだと感じました。

七海さんはインスタなどを介して、留学を考えている方からよく相談を受けるそうです。相談者は、七海さんと話をしていると「それは七海さんだからできたことで、自分には.. 」となってしまうことも多いそうです。しかし、七海さんは「絶対にそんなことはない、挑戦したら誰でも、必ずできる!」といいます。自分ができないことを認め、周りにサポートしてもらいながら、一歩ずつ階段を登るように、努力していれば、誰だってできるようになると。

この体験談が、踏み出すことを悩んでいる方の一歩に繋がることを願っています。

ワールドアベニューでは看護留学について日々様々な疑問質問にお答えすべく、説明会や個別留学カウンセリングを実施いたしております。いずれもご利用は無料です。「まずは情報収集から!」という方は海外看護有給インターンシップ・プログラム説明会へ、より具体的に出発時期などについて相談したい方は留学カウンセリングをご利用ください。